SSイベント報告+役員会より

東京女子大学同窓会 埼玉支部の活動のあれこれと役員会からの報告をお伝えします。
“私の生き方ー山に学ぶ”−07年第2回「銀座の教室」
今回(5.18開催)の講師は医師で登山家の今井通子氏。
石原女史が、種々の審議会や委員会などで出会い、「発言の内容がいつも新しい」ことに感心、講演を依頼なさったとのこと。

話の主旨は、自然がいかに人間を育てるか、ということでした。昨今、親を殺す子供、子供を殺す親など、とんでもない事件が続くが、こうしたことの原因の一つに、現代生活から自然がなくなってしまったことにあるのではないか、との指摘でした。

こう書くと、そんなことは誰でも言っている、耳にタコだ、と思われる方もおいでかと思いますが、それが今井さんの話になると、突然に真実味を持ち、迫力満点になるのです。

というのも、彼女の言葉が彼女自身の豊富な体験に基づいていて、具体例がぼんぼんでるからです。何しろ女性として世界で初めてヨーロッパの三大北壁を制覇し、その成功の日(1971.7.17)に、グランドジュラスの山頂で、登山家高橋氏との結婚式までやってしまうという、行動力の塊みたいな女性です。

輝かしい登山暦の数々はネットに紹介されていますので、お読みいただくとして、彼女がこのように挑戦的であり続けられるのも、その力を自然から学んだから、と彼女はいいます。

ヨーロッパの人々が自然の中のバカンスを大切にするのも、自然が人間に与える影響を重視するからではないか、と彼女は考えています。彼女はこれを「積極休養」と表現、成長に不可欠なものと強調しました。この指摘は、私の心にキラリと響きました。

私がかねてから不思議に思っていたのは、医師(東京女子医大腎総合医療センターに今年3月まで勤務)という忙しい仕事をしながら如何にしてあのように半端じゃない登山活動を続けられるのかということでした。

それが、強い意志によってできること、その力も自然からの贈り物であることが納得できました。

たまたま明日からスコットランドからイギリスの田園を訪ねる旅に出かけるのですが、そこの自然がどのように素晴らしいのか、それは人々の暮らしにどのように位置づいているのか探ってみたいと思います。「積極休養」にしたいと思います。

以上、感想だけの雑な報告で済みません。時間切れです。          <O>


| 銀座の教室 | 22:54 | comments(1) | - |
第10回「埼玉支部の集い」報告
2007支部の集い

第10回「埼玉支部の集い」は平成19年5月19日(土)午後1時より、
埼玉教育会館(さいたま市浦和区)において開催されました。
午前中は時折強い雨が降りましたが、開会の頃には小止みになり、
懐かしい顔が揃いました。
65名の参加がありました。

会は、新井友子さん(69・短英)の進行によって始まりました。

第1部は、校歌斉唱、支部長挨拶の後、総会議事に移りました。
議事では、
1.2006年度活動報告、2007年度活動計画(案) 
2.2006年度収支報告、2007年度予算(案) 
3.役員の改選(案)の3つの議案が提出され、それぞれ承認されました。

今回は支部創設10周年の記念すべき総会であり、
創設に貢献された方々の紹介、さらに、この総会にあわせて作成された冊子
「埼玉支部10年のあゆみ」の紹介が行われました。
さらに、今回任期満了で退任される石井恵子支部長はじめ4名の理事に
花束と多大な拍手が送られました。

第2部は、鈴木道子講師(54・文英)による講演
「ヒット曲から時代を読む」が行われました。
LPレコードやCDで実際の音楽を聴きながら、
歴史的時代背景とポピュラー音楽がどう関わっているか、
特に1920年代を中心に、
女性の活躍という側面からも捉えた講演が行われました。
懐かしい音楽に出会い、それがどういう意味を持っていたのかを
改めて認識する印象深い講演でした。

第3部は茶話会です。
進行も金井啓子さん(72・文英)に変わりました。
長野文子さん(66・文社)の手づくりのクッキーや
紅白の紙に包まれたお菓子をいただきながら、
楽しいおしゃべりのひとときを過ごしました。
卓上に飾られた花や、壁面に展示された会の活動成果も、
楽しい話題を提供してくれました。
準備に大活躍された皆さん、ありがとうございました。

| 総会 | 20:44 | comments(0) | - |
第10回埼玉支部の集い講演会の要旨
大変遅くなりましたが、2007年5月19日開催の第10回埼玉支部の集い第2部の講演の要旨をYMさんにまとめていただいたものを掲載します。少し長いものですが、出席できなかった方にも参考になる内容ではないかと思います。(KK)


ヒット曲から時代を読む(要約)−講師:鈴木道子
まず自己紹介から始めさせて下さい。私は1954年に女子大の英文科を卒業、文化放送に入社しました。私はもともと学生時代の新聞部での活動経験から、社会報道番組のプロデューサーを希望していました。ところが当時、女性はアナウンサーという時代。私もアナウンサーとして就職したのですが、根っからの音楽好きが認められ、幸いにも音楽番組を担当することになりました。その番組は「しゃべる原稿は書く」というところ。それが私の音楽ジャーナリストとしての出発点となりました。そして1960年、初めてアメリカに行き、多くのミュージシャンと出会いました。会った人とそうでない人では、同じ曲を聴いても、評価が違ってきます。会って初めてわかることがある、沢山のミュージシャンとの出会いが私の財産になりました。同じように、聴いて初めてわかることもあります。今日はたくさんのCD、レコードを持参しました。それを聴きながら、ヒット曲とその時代についてお話ししたいと思います。
1. 1920年代の風潮とヒット曲
1920年代は「ローリング20s」、どんちゃん騒ぎ、喧噪の時代と言われます。娯楽的、享楽的な時代で凶悪犯が続出し、その一方で健康志向も生れました。また婦人参政権が認められ、フラッパーガールと呼ばれる「自立した」女性が街を闊歩しました。広告が出現したのもこの時です。このデカダンスな時代は、どこか今の日本に似ているようにも思えます。この時代に流行った音楽がチャールストンです。チャールストンの流行は女性の服装までも変えました。コルセットなし、スカート丈も短く、髪形はロングからボブへ、香水、タバコの嗜好、女性の体型まで変わり、まさにチャールストンから革命が起こったのです。
1924年、ジャズ・エイジが始まります。「現代音楽の実践」でガーシュウィンがラプソディー・イン・ブルーを演奏し、黒人音楽だったジャズが白人社会に浸透して行きました。ただしジャズのサポーターだったのは、アル・カポネに代表されるギャングだったのですが・・・。ジャズ浸透の一例として、60年代にこの時代を映画化した「お熱いのがお好き」からマリリン・モンローの歌を聴いて下さい。ちなみにモンローの歌い方はベビー・ボイスと言って、彼女独自のものではなく、ベティさんのモデルになったヘレン・ケインに似せたものです。このベビー・ボイスは今のマドンナの歌い方に受け継がれています。
さて1920年代は悪名高い「禁酒法」の時代でもあります。この史上最悪とよばれる法律は人々のライフスタイルも変えました。お酒とともに構成されていたディナーが、アラカルトに変わり、サラダ・バーも登場しました。健康志向も生まれ、それにあった曲が生れました。「コーヒー・サンドイッチ・アンド・ユー」、ビング・クロスビーの「ティー・フォー・ユー」などです。けれども禁酒法が終わると「カクテル・フォー・ユー」という曲が出現します。まさに時代に添っていますね。そして大恐慌時代、そこでは「キャン・ユー・スクエア・ア・ダイム」「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」など、逆に空元気のような曲が生まれたのです。
2. 変化する日本のイメージ
アメリカのポピュラーソングに見られる日本のイメージも時代によって変化しました。1910年代は三浦環がメトロポリタン歌劇場で演じた「マダムバタフライ」の印象が強く、その後、「フジヤマ・ゲイシャ」のイメージが定着します。60年代になり日本の経済発展がはじまると「リトル・ホンダ」「ポケット・トランジスタ」などの日本製品にちなんだ楽曲も生まれました。「スキヤキソング」も流行りました。安く粗悪な日本製品というイメージから解放されるのが1970年代で、その後YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の音楽活動で、日本のコンピューター技術がアメリカンポップスに影響を与えるようにもなりました。そしてマイケル・フランクスの「南禅寺」など、さらにきめ細かな日本のイメージを歌う曲も書かれるようになりました。さらに80年代の日本のロボット技術からは「ミスター・ロボット」という曲も生まれました。
3. 1970年代の女性達
1970年はアメリカ社会最悪の時代とも定義づけられています。しかし女性にとっては良い時代の始まりでした。60年代からのウーマンリブがさらに盛んに、確固としたものになり、生き生きとした女性が輩出され、同時に環境問題にも社会的な興味が生まれたのです。ジョニ・ミッチェルの「ビッグ・イエロー・タクシー」は乱開発を揶揄し、ベトナム戦争に反対する「WOOD STOCK」が開催され、平和を願う歌が数多く歌われました。
 キャロル・キングはシンガーソングライターの草分けですが、「きみの友だち」というすばらしい友愛の歌を歌い、ヘレン・レディの「私は女」は国際婦人年のテーマソングになりました。またバーブラ・ストライサンドは「追憶」、「スター誕生」など数々の名曲を作りましたが、彼女もウーマンリブの闘士です。70年代は女性歌手がきらきら輝いている時代でした。
4. カントリーに描かれた女性
1920年代、カーターファミリーが歌った「シングル・ガール、マリッド・ガール」は、当時の結婚を表したカントリーソングでした。またロレッタ・リーは炭坑夫の娘として育ち、男のいいなりになる女性を批判して「ピル」という曲を歌いました。第二次大戦中、女性は男性の代わりにさまざまな職業に従事していました。しかし戦争が終わると復員兵に職場を明け渡し、「女性は家へ」という風潮が強まります。「スタンド・バイ・ヨア・マン」というタミー・ワイネットの曲はその中で生まれたものです。しかしその後、シャライヤ・トェンは「私の彼氏」で私の恋人は私が一番でなければ、と歌いました。
アメリカンポップスと時代を端的に表す最近の例を挙げると、ディクシー・チックスが歌った「Not ready to make nice」です。2003年の彼女らの反イラク戦争、反ブッシュの発言は、さまざまな嫌がらせを受けました。けれども今年、彼女らは「NOT READY TO MAKE NICE」のヒットなどでグラミー賞の5部門を受賞。これはアメリカが反ブッシュに回帰してきたからに他なりません。このようにポップスは時代と共にあり、逆にそこからアメリカの歴史を見ることが出来るのです。
| 総会 | 07:47 | comments(0) | - |
所沢ミニ支部 ウォーキングの会
生憎の雨模様でしたが、所沢ミニ支部ウォーキング会の最初の日でしたので、市立図書館前に行ってみました。
図書館前にはTさんのいつもの笑顔。
若干2名でしたが、ちょうど雨も一段落したのでウォーキングコースを歩いてみました。
コースには木や花がいっぱい。石楠花が咲いていました。
しゃくなげ

雨のせいかカルガモの親子も散歩しています。
カルガモと一緒

こんな映像のような風景も見られました。
雨上がりで人も少なく、ちょっとしっとりとした雰囲気。
2キロちょっとのウォーキングでしたが、満足満足でございました。三崎しっとりと静かな草原

新緑が雨にあらわれ木々の芽がしっとりと柔らかになっていました。
そんな木々のトンネルをくぐり、かすんだ前方に小さな小川や池を見ながら
行きかう人も1〜2人くらいのし〜んと静まりかえった中を歩いていました。
そこに眼前にカルガモの家族連れ?が愛らしい姿を見せました。
私はよくウォーキングしてますがカルガモ対面は初めてでした。
かわいかったですね!ぴょこ、ぴょこ動いている様子は!
公園は自然に恵まれています。
きれいな季節の花も咲いています。
皆様とご一緒にウォーキングしたいと思います。
第1回目のミニ支部のウォーキング会は小雨のなかで2人でしたが
私にとって本当に嬉しいスタートでした。武田
| 所沢地区ミニ支部会 | 21:32 | comments(0) | - |
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